弥生時代と「クニ」の形成 解説

Uncategorized

【1】フローシートの構成

弥生時代の教科書の構成は主に2つの視点から成り立っています。
1つ目が考古学的成果によってもたらされた弥生時代の社会や文化に関すること。
2つ目は中国の歴史書に記されたことから分かる弥生時代の日本の様子です。

結構この区別が出来ていなくて、後者を弥生時代の歴史として勉強した感覚が薄い人がそこそこいます。特に邪馬台国については、弥生時代じゃないと思っている人も。

このフローシートでは2つの軸を設けて弥生時代の前期~後期までの流れを追えるものとしました。流れを追っていく関係上、前者の方が中心の作りとなっています。また、中国が関係してくるので、中国の王朝の変遷も簡単に記してあります。

【2】解説

《縄文晩期~弥生時代前期》

中国で稲作が始まったのは紀元前6000年頃と言われてます。そこから、中国大陸から直接か、朝鮮半島を経由してか日本に稲作が伝わってきます。稲作が始まったのは弥生時代というイメージが強いかもしれませんが、縄文晩期から稲作が始まっていたのが分かっております。その代表的な北九州の遺跡として有名なのが佐賀県の[a. 菜畑 ]遺跡と福岡県の[b. 板付 ]遺跡です。どっちがどっちの県かごっちゃになりやすいですが、失礼な覚え方ですが、畑が多そうな田舎はどっちかなって覚えると間違えることはなくなると思います。

北九州に伝わった後、東日本へと広がっていき、弥生時代前期にすでに東北地方まで広がっていきました。それを示すのが青森県にある本州最北端にある水田跡遺跡である砂沢遺跡です。こちらも頻出です。少し細かい話をすると、青森県の水田跡遺跡としてもう一つ有名なのをあげると弥生時代中期の垂柳遺跡です。

稲作は当初から田植えが行われていたことが分かっています。初めは、水田は生産性の低い湿田(1年中水を抜けない田んぼ)でしたが、後期になると用水路によって水を出し入れできる乾田が普及し生産性も向上していきました。また、弥生時代前期では農作業に使われた道具は木製農具石包丁などの磨製石器でした。

稲作が始まって、水資源・土地・余剰生産物をめぐって争いが弥生時代には増えたようです。それを示すのが村に堀をめぐらせた[c. 環濠 ]集落の登場や矢じりが刺さって損壊した遺体の出土です。代表的な環濠集落の遺跡は絶対外せないのは吉野ヶ里遺跡ですね。あと、よく出る所を載せておきました。

《弥生時代中期~後期》…中国の歴史書から見た

日本の様子が初めて歴史書の中に出てくるのは前漢の歴史を記した[d.漢書地理誌]です。紀元前1世紀ころに[e.楽浪]郡(前漢が設置した現在の平壌付近にあった行政区)の海の向こうに倭人(日本人のこと)がいて、多くの国に分かれていて定期的に朝貢してきていることを記しています。このことから日本列島で小規模な「クニ」が形成されていたことが分かります。

次に日本の様子が出てくるのが[g.後漢書東夷伝]です。この歴史書には1世紀~2世紀後半までの日本の様子が出てきます。建武中元二年が57年ということは、昔は暗記させられましたが、1世紀ということが分かればよいです。それ以外の元号も同様で、だいたい何世紀の初め・半ば・終わり頃みたいな感じで覚えておけば対応できます。

・建武中元二年(57年)

倭の奴国王が後漢に朝貢してきて、後漢の[h.光武帝]が印綬(印章と綬はそれを下げるためのひも)を授けたと書かれています。この記述に出てくる印章が江戸時代に現在の福岡県の志賀島から出土した「漢委奴国王」と記された金印とされていますが、それを疑う説もあります。倭国の小国の王たちは中国の皇帝に朝貢して冊封(朝貢してきた者に対してその支配を承認されて臣下として認めること)を受けることで自らの支配の正当性を高めたり、権威を高めて他の小国の王に対して優位に立とうとしました。

・永初元年(107年)

倭国王の帥(すい)升(しょう)という人物が[i.生口](奴隷)を献上したことが記されています。後漢書には倭国の国の名前や王様の名前が出てきていることからより「クニ」の統合が進んでいったことが分かります。

⇒ 弥生時代後期になると、楯築墳丘墓や山陰地方に多い四隅突出型墳丘墓など大型の墳丘墓が出現しており、小国の王の登場を物語っています。

・2世紀後半…『桓霊の間』

成長した「クニ」同士がぶつかり合ったのでしょう。倭国では戦乱が続いたことがしるされています。この倭国大乱の後、邪馬台国を中心とした連合政権が成立することになります。

⇒弥生時代中期・後期になると、瀬戸内海沿岸に山頂部分に作られた高地性集落(代表的な香川県の遺跡の紫雲出山遺跡はよくでてきます。が登場します。その性格についてはまだ分かっていないことが多いですが、戦乱と関係していたのかもしれませんね。

《弥生時代中期~後期》…発掘成果から見た

考古学的にも弥生時代中期~後期にかけて、「クニ」の形成が進んだことが見て取れます。強力な首長が出現したことによって、墳丘墓など身分の高い人用の墓が作られるようになりました。
また、首長たちは宗教的な儀式(祭祀)も主催するようになり、大陸から伝わった[f.青銅器]がお祭りの道具として用いられました。ここでのポイントは日本においては青銅器は祭祀用として用いられたということです。銅剣や銅戈も一見武器のように見えますが、大型化しており祭祀用と考えられています。大陸では青銅器が武器として用いられた歴史があるのですが、日本では鉄器と青銅器がほぼ同時期に入ってきたため、より丈夫な鉄器は実用、きれいな青銅器は祭祀用になったではないかと考えられています。

使われていた青銅器には地域性があることが分かっています。
①銅矛・銅戈…九州北部中心
②銅剣…瀬戸内海中心
③銅鐸…近畿地方中心
このことから共通の祭器を共有するも地域連合があったということが考えられています。

また、青銅器が大量出土した遺跡として、
荒神谷遺跡(島根)・・・銅剣大量出土
加茂岩倉遺跡(島根)…銅鐸大量出土
はそれぞれの特徴とともに抑えておきたいですね。

《[j. 「魏志」倭人伝]》…3Cの日本

後漢が滅びた後、中国は魏・呉・蜀の三国時代となります。その歴史を記した『三国志』の「魏書」の一部が「魏志」倭人伝となります。そこに登場するのが[k. 邪馬台国 ]です。倭人伝によると、邪馬台国連合は2世紀終わりの倭国大乱の後、[l.卑弥呼]を女王としたところ争乱が収まり、成立しました。卑弥呼は「鬼道」(呪術)を得意とし、弟が政治を補佐していました。239年、卑弥呼は魏の皇帝に朝貢の使者を送って[m.親魏倭王]として冊封さました。魏志倭人伝は当時の倭国の社会の様子が分かる貴重な資料です。大人・下戸などの階級や租税・刑罰制度があったことなどが分かります。しかし、邪馬台国の所在地については九州にあったのか、近畿地方にあったのか、今でも論争が続いています。

3世紀半ばに卑弥呼が亡くなった後、男性が王となったそうですが、国がまとまらず、再び女性の壱与(台与)が王となり国が落ち着いたそうです。266年に魏にとってかわった晋へ倭の女王が使者を送ったという記述を最後に日本に関する記述は中国の歴史書から約150年間消えます。

特に4世紀についてはほぼ文字史料がないので、「空白の4世紀」なんて呼ばれます。中国自体が北方の異民族の侵入を受けて乱れていたので日本のことについて記録する余裕などなかったのかもしれませんね。

4世紀に前方後円墳が出現し、全国に広まっていきます。このことからこの頃にヤマト政権が成立したであろうことが分かっています。これをもって、古墳時代の始まりとされており、弥生時代は終わりを迎えることになります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました